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第15話 三年前の雨③

Author: 花柳響
last update publish date: 2026-06-19 06:02:31

「そこ、否定しないんですか」

「否定すると、もっとずるくなる」

 返事が、わずかに遅れた。

 笑いそうになったわけではない。

 泣きそうになったわけでもない。

 ただ、あの夜の自分が、三年遅れて誰かの視界に入っていたことを、どう扱えばいいのか分からなかった。

「……三年、遅いです」

「はい」

「今さら渡されても、私はあの夜には戻れません」

 律の目が、仮面の奥でわずかに揺れた。

「戻ってほしいとは思っていません」

 それは優しさに似ていた。

 でも、優しさだけではない。

 自分の失敗を、自分の手元に置いている人の声だった。

「では、どうして今」

「昨日、あなたが聞いたからです」

「支配ではないのか、と?」

「はい」

 律は、机の上に置かれた書類の束へ視線を落とした。

 昨夜の契約書とは違う。表紙に、如月家との絶縁合意に関する確認、と印字されている。

「私が
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    「朝霧という名前を、あなたの家の都合で使われるのは嫌です」「分かっています」「私が使うから、意味があるんです」「はい」 短い返事だった。 でも、その短さは悪くなかった。 説明されるより、ずっと聞きやすい。「では、病院までは一緒に来てください。病室には、私一人で入ります」「分かりました」「本当に?」「はい」 あっさり返されると、逆に疑いたくなる。 けれど律は、それ以上踏み込まなかった。 車椅子の向きをわずかに変え、相良さんに出発の準備を頼むだけだった。 その動作の途中で、また見えた。 床に置かれた彼の靴先が、ほんの少しだけ角度を変える。 車椅子の向きとは別に。 まるで、体の方が先に動こうとして、それを止めたように。 私は視線を逸らした。 気づかなかったふりをした。 まだ、問い詰める時ではない。 たぶん、律もそれを知っている。 ◇ 如月本家では、朝から未央の声が廊下まで響いていた。「どういうことなの。どうしてあの人が、朝霧なんて名前を知ってるのよ」 昨夜のまま眠れなかったのか、未央の目元には薄く影が落ちていた。 それでも髪は丁寧に巻かれ、部屋着も淡い色で揃えられている。 鏡の前に立つ姿だけなら、いつも通りの令嬢に見えた。 ただ、スマートフォンを握る指先だけが白い。「調べさせております」 電話の向こうで、男の声が答えた。 父の紹介で使っている調査会社の人間だ。名前は覚えていない。覚える必要もないと思っていた。「早くして。榊律が何を知っているのか、全部」「承知しました。ただ、一つ気になる点が」「何」「榊律氏の事故記録です。公表資料と、当時の医療関係者の証言が一部合いません」 未央は眉をひそめた。「事故で火傷して、車椅子なんでしょう」「そう発表されています。ただ、事故直後から数か月の動きに、確認できない空白がありま

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    「そこ、否定しないんですか」「否定すると、もっとずるくなる」 返事が、わずかに遅れた。 笑いそうになったわけではない。 泣きそうになったわけでもない。 ただ、あの夜の自分が、三年遅れて誰かの視界に入っていたことを、どう扱えばいいのか分からなかった。「……三年、遅いです」「はい」「今さら渡されても、私はあの夜には戻れません」 律の目が、仮面の奥でわずかに揺れた。「戻ってほしいとは思っていません」 それは優しさに似ていた。 でも、優しさだけではない。 自分の失敗を、自分の手元に置いている人の声だった。「では、どうして今」「昨日、あなたが聞いたからです」「支配ではないのか、と?」「はい」 律は、机の上に置かれた書類の束へ視線を落とした。 昨夜の契約書とは違う。表紙に、如月家との絶縁合意に関する確認、と印字されている。「私が先にすべてを整えて、あなたに差し出せば、また同じことになります」「如月家と?」「形は違っても」 爪先に、知らないうちに力が入っていた。 律は私を守ろうとしている。 それでも、守るという言葉の中に、私が選べない形が混ざることを恐れている。 この人は、強い。 けれど、強いだけではない。 強いからこそ、自分の手で壊すことを知っている。「今日、病院へ行きたいです」 私は言った。 律が顔を上げる。「静江さんのところへ」「もちろんです」「榊家の人間としてではなく、朝霧栞として行きます」 言ってから、指先が少し震えた。 まだ慣れない名前。 でも、今口にしなければ、また誰かに先に決められる。そう思った。 律は頷いた。「車を出します。私が一緒に行くかどうかは、あなたが決めてください」「本当は、一緒に来たいんでしょう」「したいです」「正直ですね」

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     朝の光は、厚いカーテンの隙間から細く入り込んでいた。 廊下の遠くで、車輪の金具が控えめに鳴った。 目を開けた瞬間、自分がどこにいるのか分からなかった。 天井が高い。 壁紙の色も、枕の沈み方も、昨日までの狭い部屋とは違う。 掛け布団は軽すぎるほど軽く、肌に触れるシーツは、洗いたての水気が完全に抜けた匂いをしていた。 私はしばらく、息を殺していた。 誰かの家に泊まったのではない。 嫁いだのだ。 正確には、まだ書類上の妻ではない。けれど、如月家はもう私を差し出したつもりでいるし、榊家は私を受け入れた形になっている。 そのどちらも、まだ少し遠い。 ベッド脇のテーブルには、昨夜渡された鍵が置いてあった。 銀色の小さな鍵。 それだけが、この部屋に私の居場所を作ったような顔をしている。 私は指先で鍵に触れ、すぐに手を離した。 鍵一つで人は安心できない。 それくらいは、もう知っている。 身支度を整えて部屋を出ると、廊下には相良さんが立っていた。 驚かなかった。 この屋敷では、誰かがどこかに立っていても不思議ではなかった。「おはようございます、朝霧様」「……おはようございます」 呼び名に、ほんの少しだけ喉が引っかかる。 朝霧様。 如月でも、栞お嬢様でもない。 その響きはまだ借り物のようで、けれど昨日までよりは、わずかに息がしやすかった。「朝食をご用意しております」「榊さんは」「先に書斎へ。お食事は、朝霧様がお召し上がりになった後で構わないと」「それ、私は一人で食べればいいってことですか」 口にしてから、少しだけ言い方が硬かったと思った。 相良さんは表情を変えなかった。「無理にご同席なさらなくても構いません、という意味でございます」「……そうですか」 まだ、この家の言葉の温度が分からない。 突き放されているのか

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    「そのつもりでお渡ししていますから」「まず、内容を確認させてください。必要なら、外部の人にも見せようと思います」「どうぞ」 逃げ道を塞がれているのではなく、逃げ道そのものを机の上に並べられているようだった。 窓辺のレースカーテンが、空調の風でほんの少し膨らんだ。 相良さんが書類を透明なファイルに入れる。「お部屋へご案内いたします。お食事は軽いものをお持ちします」「水だけで結構です」 反射的に言うと、律がわずかに眉を動かした。「無理に食べる必要はありませんが……見える場所に置いておきますので、ご自由にしてください」 受け取れとも、食べろとも言わない。 ただ、そこに置く。 部屋の前で、相良さんが鍵を差し出した。「内側から施錠できます。外から開ける場合は、緊急時を除き必ずお声がけいたします」 鍵は小さかった。 手のひらに乗せると、冷たい金属の重みがあった。「ありがとうございます」 今度は、わずかに声が出た。 律は部屋の前で、こちらを見上げる。「明日の朝、契約の続きを話しましょう。嫌なら、昼でもいい」「夜まで延ばしたら?」「夕食が増えます」 冗談なのか本気なのか分からない。分からないのに、その言葉だけは、さっきまでの契約書より少しだけ温度があった。 思わず、息が抜けた。 笑ったつもりはなかった。けれど律の目元がわずかに緩む。 それが悔しくて、私は鍵を握り直した。「榊さん。あなたは、どうして私にここまで選ばせるんですか」 律はすぐには答えなかった。 廊下の奥で、古い時計が小さく鳴る。「三年前」 律が口を開いた。「あの雨の夜、あなたは誰にも選ばれなかった顔をしていました」 指先が鍵に食い込む。「だから、今度は私が選ぶ、とは言いたくありません。あなたが選べない形で差し出すなら、如月家と同じになる」「……それでも、あなたは私を探していた、と」「はい」「それって、支配じゃないんですか」 言った瞬間、律の目がわずかに止まった。 短い沈黙が落ちる。「その問いには」 律は、視線をふい、と逸らした。「明日、答えます」「またですか」「今言えば、言い訳になる」 返す言葉が見つからなかった。 去り際、律が一度だけ振り返る。「あの雨の夜、あなたに渡せなかったものがあります」 廊下の灯りが、仮面の縁に細く落

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    「その言い方は、たぶんあなた自身が嫌がるはずでしょう?」 思わず律を見た。 分かっているような顔をされるのは嫌いだ。 けれど今の言葉だけは、少し違った。私が嫌がるかもしれないと考えた言い方だった。 相良さんが、机の端へ小さな箱を置いた。「今夜だけお使いいただく携帯端末です。お持ちの携帯電話を取り上げる意図はございません。電源を切るか、番号変更を検討するかは朝霧様にお任せします」 私は箱には触れなかった。「ずいぶんと用意がいいんですね」 相手は答えを探すように、机の端へ視線を落とした。「急な話でしたので、足りないものの方が多いかと」 淡々と返され、一瞬だけ肩の力が抜けた。 私は合意書へ視線を戻す。「一つ、条件を加えてください」「何でしょう」「私は、あなたの所有物にはなりません」 部屋の空気が、ほんの少し止まった。 相良さんは表情を変えなかった。けれど、ペンを持つ手だけが一拍遅れる。 律は私を見ていた。「当然です」 やがて返ってきた声は、拍子抜けするほど短かった。「当然だから契約書に書き加える必要もないと?」「いいえ」 律は机の上のペンを取り、合意書の余白へ一文を書き込んだ。 車椅子の肘掛けから身を乗り出す動作はゆっくりだった。けれど、ペン先は迷わない。 ――朝霧栞の意思決定、身体、財産、職業選択、交友関係を、榊律または榊家が所有・管理するものではない。 淡々とした一文だった。 それなのに、舌の付け根が詰まった。「法務に整えさせます」「……こんなこと、普通は書かないんじゃないですか」「あなたが必要だと言った」 それだけだった。 優しい言葉ではない。 でも、その一文は、さっきまでいた如月家の広間には絶対になかったものだった。「榊さん」「はい」「仮面は、外さないんですか」 相良さんが初めてこちらを見た。 失礼な質問だと分かっている。けれど、聞かないまま契約書を読む方が、もっと不自然だった。 律は仮面の端に触れた。「まだ……今夜は外しません」「理由を聞いても?」「あなたが、疲れているからです」「それは理由になっていません」「なると思います」 声の温度が、少し変わった。 穏やかさの下に、踏み込ませない線がある。「怖がると思っているんですか」「それだけなら、まだいい」 まだいい。 

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